学問は「人とは何か」を学ぶものである。
学問とは、自分を見つめてその本質を知り、変化する時代を着実に読み取って自分のものとし、自分が社会に対して何が出来るか、何をなすべきかを導き出す案内人といえる。
吉田松陰は、「学問の道は、人と禽獣(鳥と獣)とでは、どこが違うのかを知ることが肝要である。その違う点とは、五倫(父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)、五常(仁・義・礼・智・信)を守っているか否かにある。これを失った者が庶民、頑張って得たものが君子、ゆったりとして自ずと身につけているのが聖人である。衆人は努力すれば聖人にも君子にもなれるが、禽獣に落ちるものもある」(講孟劄記)
学問とは、自らを学ぶことが第一義であります。
この世に生を受けて、様々な出来事、様々な人と出会うそのことで沢山の学びがあります。
現代での、教育では大学を卒業で学びは終わりになるとも考えられているように、感じられています。
しかし、人生は終活まで学びの連続になります。
学びをやめたときに、人間の限界が出来ます。
我以外皆師也と思って、学んで生きていくかぎり、限界は存在しません。
でも、様々な困難や、越えられない壁が、先に待ち受けているかもしれません。困難を超えたとき、越えられない壁を超えたとき、また新たな困難、壁が待ち受けています。しかし、その困難、壁の向こうには、新しいステージがあります。(自己実現の旅)
決して、希望、夢を捨てないことが大切であります。
辛かったら笑うんだよ。無理してでも笑っているうちに、いつかきっと心の底から笑える日が来る。
鬼塚英吉(GTO)
この文章も、困難を超える一つの方法と思います。
歳月人を待たず
中国、六朝時代の東晋の詩人、陶潜の雑詩の一節に由来します。
「盛年重ねて来たらず、一日再びあしたなり難し、時に及んで当に勉励すべし。歳月人を待たず。」
とあり、現代語に訳すと、
「若い時は二度と来ることはない。一日に朝は二度とない。時を逃がすことなく一瞬を大事にして、酒を飲んで、おおいに楽しめ」となります。
詩に使われた『勉励』という漢字から我々日本人が連想すると、「勉励すべし=勉学に努め励め」と取れますが、陶潜は、酒を飲んで、おおいに楽しむことに「努め励め」とすすめているということです。
人生では、辛い時まだ、頑張りが足りないのではとも思ったりします。そんなことは、ありません。辛いことは、今で十分辛いことであります。その中で、もがけばもがくほど苦しくなることもあります。そこでは、希望を捨てなければまた時が経てば、無理してでも笑っていれば、諦めなければいつかきっと心の底から笑える日が来ると思います。人生の答えは終活の最後に解るものと考えます。最後の時によかったと思える生き方をしませんか。共に。
鴻鵠の志の会では、様々な出来事を共有して皆さんと頑張っていきます。
宜しくお願い致します。